それはウケ狙い? 仁和寺&龍安寺に唖然とする。2021.04.05
昨日、朝10時過ぎに家を出て、仁和寺&龍安寺に出かける。とりたてて桜を見たいとは思わないのだが、仁和寺の御室桜を見たことがないので、いったいどんなものかと思ったのだ。二王門脇で800円也の「観桜・御殿共通券」を買い、最初に「御殿」へ。白書院・宸殿・霊明殿・黒書院をつなぐ通路をテクテク。それぞれの部屋には最近描かれ作られたものであろう絵や彫刻(?)が置かれていたのだが、いずれも現代風というより、受け狙いの媚びを感じてなんだかいらつく。そこを出て一面に御室桜が咲いている区域へ。御室桜は通常の桜と違って木の丈が2~3メートルと低く、それが200本。入口から入って幅が1メートルもない道を、左右に咲き誇る桜を見ながら出口に抜ける。入口でお寺の坊さんが「止まらないで下さい」と繰り返し叫んでいたが、皆、スマホで写真を撮っていたからなかなか出口にたどり着けず、イライラいや増し、一時間足らずでこの寺を出る。それから坂道を上ったり下りたりしながら15分ほど歩いて龍安寺へ。もちろん、小津の「晩春」等、絵や映像で何度も見ているが、訪れるのは今回が初めて。仁和寺は相当な混雑ぶりだったが、こちらはそれほどでもなく。入場料500円也。山門を入ってすぐのところに池があり、それに沿ってしばらく歩いてかの有名な石庭へ。前述の「晩春」の終盤、娘(原節子)と京都に来た笠智衆が、古い友人の三島雅夫を相手に、この石庭を見ながらあれこれ語るのだが、その彼の言葉よりも、画面に映し出される石庭の光景の方が、彼が抱える現在の心情はさらに雄弁に語っていたのだった。しかし、昨日見た「石庭」は映画の中の「石庭」とはまったく違っていて、それはおそらく縁側にいた数十人の大半がスマホでパチパチと写真を撮る賑やかさがそう感じさせたのだろう。いや、この屋敷に入って石庭にたどり着く前のあちこちに、仁和寺と同様、絵葉書だのお守りだのが山と置かれていて、本来なら静寂さが必須であるはずの空間が、通俗的なモノたちがテンコ盛りのウザい空間になっていて …。今世紀に入ってからのこの国の映画やTV、演劇等の大半が目指すところは「ウケ狙い」のみだと思っているが、まさか仁和寺&龍安寺まで同様だったとは!
昨日の夜見た映画「トルーキン 旅のはじまり」と、今朝見た「前略 おふくろ様 第一部最終回」に感心かつ感動したのは、簡単に書いてしまえば、前述の「俗っぽいウケ狙い」を感じさせなかったからだ。ともに、台詞によって語られ明らかにされる事柄よりも、黙って言葉を選んでいる時間や、言葉では伝えきれないなにかを抱えて途方にくれている表情が、とても初々しくて切なくて感動させられたのだ。「トルーキン~」は、「指輪物語」の作者として著名な作家のいわば自伝もので、中学だか高校だかで知り合った友達たちとのなにがあっても途切れない熱い友情と、中学生の頃から一緒の家に住んでいた女性との恋愛を軸に物語は展開するのだが、中頃までは、中・高生から大学生になった時、当然みな役者が変わるのだが、主人公はともかく、他の3人のあの男の子はどの大学生になっているのか判別がつかない等、少なからずの瑕疵があってイラついたのだが、第一次世界大戦に出兵した主人公が、同じように出兵している友だちを戦地で探し回り、そして …あたりから俄然面白さ倍増、さらには、唯一といってもいい、主人公と結婚することになる女性を演じた俳優の素晴らしさといったら! 彼女の心の中に常にあってなかなか消えない<不幸感>が、語らずして語られるのである。
「前略 おふくろ様」のショーケンが同様。以前にも書いたが、このドラマのショーケンにはまともな台詞はほとんどなく、要するに対話が苦手な男で、だから、彼の台詞の大半は「いや、だからそれは …」「そ、それなそうですけど …」、あとは、母親への手紙に書かんとすることを、ナレーションで語るだけ。でもその言葉にならない出来ない苦痛の表情が、彼のひととなり、そして、現在の心情を言葉で語る以上に雄弁に語るのだ。ここんところが、現在のこの国のウケ狙いだけが目的の大半の俳優たちにはこんな面倒なこと出来ない、というより、アタマにないんだ、きっと。