竹内銃一郎のキノG語録

「家族を想うとき」もまた恰好の教科書だ。 「恋愛日記」の稽古日記③2021.05.24

封切り時に見逃してしまったケン・ローチの「家族を想うとき」を、昨日やっとWOWOWで見る。例によって例の如く、数秒の緩みさえない傑作だ。
タイトルとなっている<家族>は、配送ドライバーの父、介護福祉士の母、学校にはほとんど行かず、友人たちと街のそこかしこに落書きをする日々を過ごす高校生男子、そして、家族の仲介役を務めんとする健気で可愛い小学生女子の4人。物語の詳細は触れずにおくが、多くのケン・ローチ作品同様、この映画の出演者のほとんどは前回に触れた「ノマドランド」同様の素人さんで、にもかかわらず、「ひょっとして当事者?」と思わせるほど<聡明な演技力>の持ち主ばかり。話変わって。
一昨日の夕方、録画しておいた「罪と罰」の劇場版を見る。去年亡くなった三浦春馬が主役のラスコーリニコフを演じていたのだが、彼に限らず皆、想像していた通り、なんとも高校演劇並の演技力で、一時間ほど見たところで消してしまった。出演俳優の誰もが、なにか不慣れな感じであったのは、演出家がロシア人であったせいかもしれないが、劇の始まりから終わりまで、出演者のほぼ全員が舞台上の階段の上にいて、そこで起こる様々な出来事の目撃者になるという設定もおよそ空回り。映画と演劇の違いはあるにしても、「家族~」と「罪と罰」の出演者たちの演技力の違いは、実に月とスッポンであった。さて、本題。
先週金曜、「恋愛日記~」初めての通し稽古。まだ音無しで衣装や小道具も揃っていないのだが、混迷の中にいた先週当初に比べると、それなりの状態までに変わっていた。ヨシヨシ。「自らを語ってほしい」とは、出演者たちに繰り返し語っていることである。物語のこの流れの中で、自分だったらどういう行動をとり、どう語るのか、と。また、体(の動き)を先導させてから台詞を吐くように、とも。ひとは誰でも、生まれて間もなく泣いたり笑ったり、さらになにかを手に取らんとするが、言葉(らしきモノ)を吐くまでには、早くとも2,3カ月はかかるでしょ、と。あるいは、ひとは外部の情報の70%は視力によって取得しているのだから、多くの場合(例外もあるが)まず行為・行動を提示し、台詞はその行為・行動の補助くらいに考えた方がいい、とも。これらは特別な演出法だとは思わないが、おそらく大半の俳優はこんなことを考えたことも言われたこともないので、みな当初は戸惑い、キャリアがあればあるほど混乱するようだ。でもね、繰り返しになりまが、これは演技の基本中の基本。ヨロシコ。話、戻って。
ケン・ローチの作品は、ここ20年ほどの間に作られたものはほとんど見ていて、どれも傑作の名にふさわしいものだが、中では、10年ほど前に見た「エリックを探して」がわたしのもっとも好きな作品。以前にこのブログにも書いたはずだが。「家族を想うとき」同様、この映画でも、主人公は仕事や子どもが起こす問題等々で悩み苦しみ、ほとんどノイローゼ状態にまでなるのだが、彼が働く郵便局の同僚たちが、「お前が神のように思ってるのは誰? なに?」と問うと、彼は「(サッカー選手の)エリック・カントナだ」と答え、「じゃ、神に願うように彼に悩み事を伝えたらいい」と同僚が言うので、そのようにすると、な、なんとカントナ何度も彼の前にが姿を現すのだ! もちろん(?)カントナ役は本物のエリック・カントナが演じて、これがまた上手いのなんの。わたしが知るケン・ローチ作品の多くは、このように最終的にはハッピー・エンドとなるが、「家族を~」は ……?
そうだ、誤解のないよう触れておかないと。「ノマドランド」の出演者のほとんどは、本物のノマドの人々だったのだが、こちらの出演者は演じる役とは別の仕事についてるひとらしく、これは監督のご要望だったらしいが、主人公を含む労働者たちに容赦ない過酷な要求をする上司役は、警官のみに限定してオーディションをしたらしい。こいつが実にどうもいけすかない野郎で、役にピッタリ!

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