悪魔に委ねよ 活動の記憶番外編2021.07.10
このブログのARCHIVEを見ると、94年には乾電池の「眠レ巴里」とさいたま芸術劇場主催公演「ハロー、グッバイ」の2本のチラシがあって、公演は確かにそうだが、この年あたりから「竹内銃一郎戯曲集」(而立書房・刊)の刊行が始まったのでは? と本棚を見てみると、この年の1月に、荒井晴彦、福間健二とともに編集に関わった「悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集」(ワイズ出版)が発行されていた。久しぶりにパラパラと頁を繰ってみると、わたしの記憶違いが多々あることに気づく。
このブログにはこれまで、幾度となく大和屋さんのことを書いているのだが、そのひとつ、大和屋さんが当時のベストセラー「石川啄木の秘密」(カッパブックス)を原作にした映画シナリオを書くのに、森鴎外全集を読んでいることにショックを受けて云々というのがあって、それは大和屋さんと知り合って間もなくのことであったように書いたはずだが、「悪魔~」の終わりにある「年譜」には、79年の出来事だとあり、ということは、知り合って10年後のことだったのだ。う~ん。それから、数年にわたって氏からピンク映画のシナリオの仕事をもらっていたと今の今まで思っていたが、氏のフィルモグラフィーの中の「映画シナリオ」の項を見ると、実際には、71年~72年の2年間で数本、これから数年後、氏に紹介された鈴木くんとの映画作りの旅日記を基にしたシナリオ、大江健三郎の小説「不満足」のシナリオ化、大映の企画で大和屋さんにきた話をわたしの方に回してくれた「ミラー」(仮題)と(いずれも映画化に至らず)、結局はせいぜい6,7本のシナリオしか求められていなかったのだ、きっと。
年譜には、91年に北海道伊達市の国際情報芸術学院の夏の集中講義・講師を務めるとある。そういえば、大和屋さん経由で、わたしにこの学校の教員にならないかという話があった。多分、この年か翌年かだったのだろう。電話をかけてきたのは、この学校の多分トップの位置にいたであろう田村正敏氏。68~69年の日大学園闘争時に書記長を務め、そのあと、北海道に移って彼流の政治活動をやっていた、知る人ぞ知る御仁。もちろん、個人的にはまったく付き合いなどなかったが、大和屋さんから、前述の闘争時、警察に追われていて、誰かからの紹介があったのだろう、大和屋宅に彼は潜伏していたと聞いたことがあった。語り口はいかにも豪傑といった感じで面白かったのだが、学生の半分以上が中国からの留学生で …などと聞かされ、だから講義は好きなようにやってくれて結構だ、給料もこれだけとかなり高額を提示されたが、北海道で中国の若者相手になにが出来ようと思い、お断りする。確かこの数年後に経営不振で潰れたはず。確認のために、ネットでこの学校はその後どうなっているかと検索してみたが正体不明状態。廃校になったとも書かれていないのは何故?
今回のタイトルは、大和屋さんが書いた『牯嶺街少年殺人事件』(監督エドワード・ヤン)批評のタイトルでもある。大和屋原稿の編集があらかた終って、本のタイトルはどうする? という話を始めてすぐに、多分5分とかからなかったはずだ、3人とも、氏の最後の原稿のタイトルにしようと意見が一致したのだった。
ついでだから、以下のことも書いておこう。前述の「国際~学院」の集中講義の最後を、大和屋さんはこんなことばで締めくくったようだ。
「ちょっと分かりにくくて申し訳なかったんですけれども、映画と言うのは、ハラハラドキドキが映画なんです。それを忘れないで下さい。」