「不可能なことは、なにもない」by J-L・ゴダール 活動の記憶㉟ 2021.07.18
久しぶりに「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見て感動する。Wikによれば、日本公開は2001年の1月だとか。この映画については、どこかの雑誌に批評を書いた記憶があり、それはどんな雑誌かとネットで検索してみたが分からず。批評を書いたというのはわたしの記憶違いかもしれない。いやまあ、そんな話はともかく。
なんといっても主人公を演じるビヨークが凄いのなんの。そもそもが世界的シンガーなのだから歌唱力が凄いのは言うまでもないが、演技力と言うか、コロコロと千変万化する彼女の表情の豊かさはまさにお宝❣ 役の設定年齢は30代前半かと思えるが、シーン・カットによっては、小学生にも高校生にも、おばちゃん、おばあちゃんにも見え、それぞれが喜びや哀しみの表現にも繋がるから、まさに神聖的とも言えよう千変万化だ。とりわけ、ラスト近くの裁判所の被告席に座る彼女の表情が❣ 彼女を死刑にせんとする検察官の弁舌を聴く彼女は、なんと瞳を輝かせていて、まるで好奇心満載の幼女のようにしか見えないのだ。こんな演技は真似しようと思ったって誰にでも出来るものではないが、自らを俳優と思っているひと、これから俳優になりたいと思っているひとは、ぜひこの映画の彼女を見てほしい。マジメなひとが見たら、俳優としてはお先真っ暗になりかねないが、それならそれでいいのでは?
と、また今回も前段が長い長い。さて本題。
94年のもう一本、11月に上演した「ハロー、グッバイ」は、小津安二郎の「お早よう」をネタに作り上げたものだ。当初は公開予定はなかった。そもそもは、彩の国さいたま芸術劇場開館の催し物のひとつとして、夏休みに15歳~20歳の男女を対象にオーディション、百数十人の応募者から選抜した20数人を映画のいろんなシーンに振り分け、確か2週間くらい毎日3,4時間かけて稽古をし、50分くらいの作品に仕上げた。大半は芝居の経験などなかったのだが、そのことが吉と出た。未知なる世界に飛び込んで得られる喜びが彼らにも、そしてわたしにもあって。稽古の最終日=本番を見に来たひとは、出演者の知り合いか劇場関係者のみであったがみな拍手喝采、これで終わるのはもったいないという劇場側からの要請があって、11月に公開することに。ただ、中学生・高校生は学校の授業があって稽古に参加するのは無理だと言うことで、さっきチラシで確認したら出演者は14人。4つ5つのシーンがそれぞれ独立していた8月版をもとに、それらを繋げて一本の作品に仕立て上げる。
男子は5人。そのひとり、大橋くんは日大の陸上部の確か主将で、高校時代に走り幅跳びの高校新記録を出し、百メートルも10秒台の記録を持っていたのだが、体のどこかを痛めて陸上選手としての将来図が描けなくなった、ということでこのチームに参加。わたしはそれを聞いて、「オリンピック出場を目指せ。出場出来たらそれを看板にして役者になれば?」と言ったのだが。彼はいまどこでなにをしてるのだろう? 山口くんも面白い男の子だった。オーディションの時、「自分で競馬新聞を作って、場外馬券場で配ってるんです」という話を聞いてわたしは興味を持ったのだが、まあ、芝居もうまかったんだな、彼は。これが終わったあと、初めて戯曲を書いて、それを第一回のシアターコクーン戯曲賞に応募したら最終選考まで残ったのだ! そうだ、彼は岩本や大和屋暁くんとやっていたPOGのメンバーでもあった。しかし、早稲田で劇団を作って何度か公演したが、劇団にいた女の子に振られたのが原因で劇団=芝居もPOGもやめて、それからずっと音信不通に。彼も今は何処でなにを? 映画では笠智衆が演じた「お父さん」を演じた慶応ボーイの木村くんは? この公演が終わった後、ヨーロッパに出かけて、子供の頃からやっていたバイオリンをあちこちで弾いてお金を貰っていたらしい清水くんは、いまは東京で複数のラーメン屋を経営する社長さん。それから、なんといっても竹林。当時は乾電池に所属していて、前回触れた「眠レ、巴里」にサラ金の男として登場していた。実家が埼玉だから応募したのだ。前述の清水くん=バイオリンと竹林=ギターで、稽古後に時々セッションしていたなあ。この2,3年後、竹林はいろいろあって乾電池=俳優をやめてしまったが、彼はわたしの忘れられない<名優>のひとりだ。