竹内銃一郎のキノG語録

あなたを見られない。 「秘密と嘘」について②2021.09.22

この映画の中頃、一時間を少し過ぎたところで始まる、これまで観た数多の映画に「こんなシーンがあっただろうか!」と仰天したシーンについて書こう。
この映画の冒頭、お葬式のシーンで涙を流していた黒人女性(ホーテンス)と、彼女の生みの母であるシンシアが街の食堂で語り合うシーンである。時間にして8分弱、ひとつの長椅子に並んで座って語り合うふたりを、カメラはまったく動かずに撮っているのだ。大島渚の「日本の夜と霧」のように、すべてのシーンがワンカットで撮られた映画はある。しかし、ワンカットでワンシーンを成立させるために、カメラは動くのだ。
今朝、改めてこの映画の始めからこのシーンまで見たのだが、思わぬ新発見があった。前述の仰天シーンに至るまで、冒頭の葬式のシーンに続くシーンは、前回にも触れたように、モーリス夫妻、シンシア親子がそれぞれの自宅の一室で語り合うシーンが大半を占めるのだが、いずれも、ふたりがワンショットに収まっているカットはひとつとしてない。まるでそれぞれがそんなショットを拒否しているかのように。このことがあったから否応なく(?)ふたりがワンショットに延々と収まり続けているこの場面が、殊更に強烈なインパクトを与えたのだ。
前述の2家族のシーンの間に、ホーテンスが検眼の仕事をしているシーン、そして、生みの母探しのために市役所に出向き、それがシンシアであることを知り、住所をたよりにシンシアの家を見つけるのだが、この時点でシンシアの前に現れることはない。
モーリスがシンシアの家を訪れ、2か月後のホーテンスの21回目の誕生日パーティを自分の家ですることを提案、そのことに対する感謝というより、久しぶりに弟と言葉を交し合ったことの感激からだろう、姉はまるで恋人にしゃぶりつくように弟に抱きつく。そうだ、この抱きつき以前は、やっぱり、ふたりが同時にカメラの中に収まるショットはない。
まだ驚くべきことがある。この映画のおそらく8割くらいは、ひとりだけがカメラに収まっているカットの連続から成り立っているのだが、もうひとつ、ほとんど室外のカットもシーンもなく、2家族それぞれの自宅の庭でのシーンも含めれば、9割ほどが室内のシーンなのである。この希少な室外シーンがうまく物語の進行のために機能しているのにもため息をついた。ホーテンスが車でシンシアの家の前まで来るカットがあるのだが、この時点で、緑色の玄関ドアの家がそれだとは我々には分からない。モーリスがやってきて、その緑色のドアをノックし、中からシンシアが現れて分かるのだ。
ホーテンスがシンシアの家に電話をかける。そして、わたしはあなたの娘です。と語ると、シンシアは驚き、電話を切る。ホーテンスは再度電話し、シンシアは彼女の言葉を信じるが、もう電話はしないで、家にも来ないでと泣きながら話す。冷静な表情・口調で語るホーテンスと、まるで子供のように泣きじゃくりながら話すシンシア、ああ、この鮮やかな対比! いうまでもなく、このシーンでもふたりがひとつのショットに収まることはない。繰り返し、もう電話はしないで、家には来ないでというシンシアだったが、会ってお聞きしたいことがあるというホーテンスの言葉に、おそらく心のどこかでは我が子に会いたいという気持ちが芽生えたのだろう、土曜の朝に地下鉄駅前で会うことになる。そして、前述のシーンに至るのだが、長くなったので、続きは次回に。因みに、今回のタイトルは、ふたりが会って言葉を交わしあう中で、シンシアがホーキンスに語る言葉である。

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