竹内銃一郎のキノG語録

馬の調教はやりすぎてはいけない。……(映画「兄が教えてくれた歌」より)2021.11.08

以前にこのブログで絶賛した「ノマドランド」の監督クロエ・ジャオの長編第一作「兄が教えてくれた歌」(2015年公開)を見る。アメリカの先住民居留区に住む高校生(?)の兄と小学生の妹が物語の核となっているのだが、映画が始まってまず驚いたのは、問答無用とでもいいたげに、通常ならあと2,3秒は続くであろうカットをプツンプツンと切り刻みながら物語を進行させるのだ。やたらと不必要に愛想を振りまく昨今のこの国の映画、TVドラマ、お芝居とは月とスッポンの違い、このことに驚きそして唸る。ゴダールの最初の長編映画「勝手にしやがれ」は、プロデューサーにちょっと長いと言われアタマにきた彼は、ほとんどのカットの始めと終わりを数秒ずつ切り刻んでそんな不当な注文に応えた、というのは有名な話だが、それとは違って、これは明らかに監督の意志・好み=主張であるはず、つまり、カットすることで物語の進行・展開を加速し、かつ、差別の対象となって生活苦を抱えながら生きている彼らの切ない心情の吐露の表出かと思われる。それにしても。仕事を失くしたり、借金返済のために家を失って車の中で生活する人々の話である「ノマド~」は、主役のF・マクドーマンドともうひとり、彼女に同居生活を求める爺さん以外の出演者はみな、平原(?)に置かれた車を我が家とするホンモノさんであったのだが、この映画の登場人物もみなアメリカの先住民居留区の生活者たちらしい。にもかかわらず、誰も素人俳優には見えないのだから監督の演出力には唖然としてしまう。
「岬の兄妹」を見たのは、「兄が~」を見た翌日の先週の金曜日。この映画を録画したのは半年ほど前で、その二、三日後にこれを見たのだが、最初の5分ほどで見るのをやめてしまった。監督の片山慎三はポン・ジュノ作品の助監督経験者で、あれはTVで見たのかネットで読んだのか、彼の映画についての思考が面白く、彼の処女作「岬の兄妹」をいつか見たいと思っていたのだが、しかし。
行方不明になった妹を兄が、びっこをひきひき海が見える家の近所を歩きまわる。これがこの映画の始まりで、昼から夕方、そして夜。彼のスマホに電話がかかってきて、船舶が止められている港に行くと、妹が知らない男と一緒に車の前に立っていて …。この一区切りがついたところで見るのをやめてしまったのだ。なぜ? 不必要に暗すぎると思ったからだ。話が暗いのは構わないが、暗いと思わせる映像は、ワタシ的にはダメなのだ。
通常なら詰まらないと思ったら映像を消してしまうのだが、「岬の~」を半年も消さずに残し、もう一度見てみようと思ったのは、これまた以前にこのブログで絶賛した「らせんのゆがみ~僕だけの先生」(監督・城定秀夫)に出ていた和田光沙が妹役を演じているからだった。前述したように、兄は足に障害があるのだが、妹は心に障害があって …。もちろん妹に働き口はなく、兄もおそらく仕事口が見つからないのだろう、食うに困って、妹に体を売らせて …という、まあ、この設定ならそうなりますわなという、驚きようもない筋立てなのだが、ワダミサさん、やっぱり凄くて。「兄が教えてくれた歌」の兄弟は、いうならば「現実のわたし」を演じていたのだが、こっちのワダさん、<マジの障害者>としか思えない芝居を次々繰り出して。まあ、わたしにそう思わせるのは、おそらく監督の演出力も手伝っているのであろうが、台本を書く力が足りないのかな? でも、来年1月にこの監督の新作が公開されるらしいから、念のため(?)それを見ようかな、と、
さっき、「兄が教えてくれた歌」の冒頭を見る。平原で白馬に乗る兄のモノローグを確かめたかったからだ。それを以下に。

馬の調教はやりすぎてはいけない。心までなついてしまう。荒野で生きるものは凶暴な心を持つ。それを残しておかないと、生き残ってはいけない。

クロエさんは台本もかなりの上級!

 

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