竹内銃一郎のキノG語録

「フランシス・ハ」にはスキがない、このタイトルさえも?2021.11.14

一昨日の金曜、数か月ぶりに広隆寺に出かけて、やっぱり多々ある仏像に感銘。見るものに何事かを語りかけてくれているような感じがするのだ。ありがたや。
映画「フランシス・ハ」を見る。WOWOWの雑誌に「俊英ノア・バームバック監督による……」と書いてあったので、先月末に録画したものだが、その監督の存在を知らなかったこともあり、2週間ばかり放置(?)してあったのだが、昨日の夜、なんとなくなにもする気がなくて時間つぶしにと思って、最初の5~10分ばかり見て詰まらなかったら消してしまおうと、これを見たのだった。
ふたりの女性(30代半ばかと思われたが27歳という設定)がまるで高校生か大学生のように遊び、食べ、飲み、踊り、語り合うシーンが途切れなく進む始まり、これがなんとも心地よく、同居してるふたりにはきっと性的関係も? なんて思いながら見ていたらそんなことはなく、メガネをかけた学者風の女性の方が男と同棲するというので、ダンサー志望の女性(=フランシス)は、パーティで知り合った男性ふたりが住む部屋に引っ越す。ここでもどっちかの男と恋愛&性的関係に? と思っていたらそんなことはなく …。誰もが安易に想像・想定するであろうことがなにも起こらない、そのことが見る者の興味をさらにさらにとかきたてていく、こんな映画はあまり記憶にない。
先週と今週の土曜のお昼に同じ劇場で、それぞれ知り合いが作ったり出演したりしていた2本の芝居を見る。どちらもワタシ的にはあまり興味のもてないものであったが、観客たちがまあよく笑うことに驚いた、というより、このことがわたしの気分を白けさせたのだ、おそらく。
昨日の芝居には、来年上演する「モナ美」の初演に出て貰った清水さんが出ていて終演後、前にも言ったと思うけどと断って「ひとはね、外部の情報の60~70%を視覚で得るの、だから、台詞の言い方をドーコー考える前に、自分の身体をどうしたらいいかを考えないと。具体的には、台詞を言う前に身体を反応させる、これが原則」と伝える。おそらく両作品の演出家にもそんな<思考の原則>がまったくと言っていいほどないのだろう。前述の「フランシス・ハ」にはそれがある。まったくと言っていいほど退屈さを感じさせないのはそこからきている、間違いない。
今朝、ネットで「フランシス・ハ」を見たら驚いたことが続々。まずは、監督のノア・バームバックが、わたしが大好きなW・アンダーソンの「ファンタスティッックMr.FOX」の脚本を書いていて、「フランシス・ハ」の主役を演じたグレタ・ガーウィングは、この映画の台本を監督と共作、更に、これまたわたしの大好きなジム・ジャームッシュの「パターソン」「デッド・ドント・ダイ」に出ていたアダム・ドライバーが、グレタ演じるフランシスと同居者役(?!)で出演していたのだ、気づかなかったのは10年前の映画だからで、おかしなノッペラボーがまさしく彼だったのだ。
この映画、実にお喋りな映画だが、語っていない時に、語られない<心のうち>が感じられ、そこもこの映画の素晴らしいところ。この奇妙なタイトルは、ラスト、彼女が新しく住むことになった家の玄関に自分の名前を書いた札を取り付けるのだが、その札が小さくて、名前のあとの苗字を「ハ」としか書けなかったところからきている、念のため。

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