竹内銃一郎のキノG語録

時間は容赦のないもの …2021.12.22

今日、前回の続きを書くためにもう一度「エル・スール」を見て、驚く。前回、8歳になったばかりのエストレーリアが「前述の儀礼シーンのあと、教会内に楽し気な音楽が流れ出し、それにあわせて男女が抱き合って踊り、そこへ父が現れて、彼女は父と踊り始める」と書いたのは大間違いで、ふたりが踊ったのは、おそらくエストレーリアに関わりのある人々がお祝いに集まってくれた食堂かどこかだったのだ。なんでこんな間違いを⁉ 訂正しなければと思いつつ見ていたら、終盤、父とホテルの食堂で昼ご飯を食べながら久しぶりに言葉を交わしあっていた15歳になった彼女は、学校のお昼休みが終わるのでもう帰ろうとすると、結婚式をやっている隣からにぎやかな音楽が流れてきて、それを耳にした父は娘に「この音楽はあの時の …」というような語りを言葉ではなくしぐさで示し、それにうながされた彼女が、仕切られたカーテンをそっと開けて隣を覗くと、新郎新婦らしき男女があの懐かしい(!)音楽に合わせて踊っていて …。つまり、このふたつのシーンがWって前回の「記憶違い」が生まれたのだ、きっと。
数日ぶりの再見だったが、細部まで考え抜き選び抜いたカットの積み重ねから成るこの映画に改めて感動する。このブログでも繰り返し書いていることだが、ここ10年のこの国のTVドラマ・映画の多くは、選んだ題材が浅はかで、俳優たちはなにかと言えば動き回ったり大声で騒ぎ立てるのだ。漫才等のお笑いも同様。先日のM1にはほんとにイラついた。どれもこれもうるさいだけで内容がなく、唯一笑わせてもらったオズワルドが優勝するだろうと思っていたら、いちばんうるさかった錦鯉が優勝! 世も末だな。「エル・スール」に陶然となったのはきっとこの切ない現況もあるのだろう。
エストレーリアが両親及びお手伝いの女性と住んでいるのは、スペインの北方の山々に囲まれた、隣近所に他の家が見当たらない、屋根に作りもののカモメが飾られた家。シーンの多くは夜もしくは早朝の室内で、まばゆいほどに明るいカットはほとんどなく、例えば、ファーストシーン、部屋の窓から微かに漏れている明かりが少しづつゆっくりと、エストーリアの寝顔を照らし出すとか、この種のシーンは他にも多々あり、このほの明かりからの始まりが<思わぬ出来事・展開>を紡ぎ出すのだ。ファーストシーンでいえば、彼女が父の振り子を手にして父の死を確信するとか。また、以前に書いた「秘密と嘘」と同様のシーンも。前述したエストレーリアが父と食事するシーンは、多分7~8分の長さだが、常に語るどちらかをとらえているカットしかなく、向かい合うふたりが同時に収まっているカットは、ワンカットしかないのだ。何故? おそらく、エストレーリアが小学生だった頃は親密だったふたりが、父が昔の彼女のことが忘れられないことが明らかになり、そのため父は家を出て …ということもあろうが、そんなストーリーの中身とは関係なく、ひとはみな個々に生きているということ、言葉で伝えられることは限られているということ、世界は個々の意志で成り立っているわけではないこと、等々、この映画からわたしが受け止めたのはこれらのことだった。
まだ書きたいことは多々あるのだが、うまくまとめられないのでここで止める。タイトルの「エル・スール」とはスペイン語で「南」。この作品の上映時間は90数分だが、当初の構想では、エストレーリアが、亡くなった父(自殺)の両親が住んでいる南に出かけてアレコレあって …というものだったらしいのだが、制作費の捻出が難しいということで、彼女が南に向かって自転車を走らせるカットで終わる。今回のタイトルは、父の元恋人(元女優)から送られてきた返信の中にあった言葉です。
 

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