竹内銃一郎のキノG語録

小津安二郎の「麦秋」の冒頭について②2022.02.28

前回の文章で、わたしが「麦秋」の冒頭5分を「不可解かつスリリング~」と感じたことをお分かりになっていただけただろうか? いや、わたしは明らかに混乱していて、さっき読み直したら上手・下手を間違えて書いている箇所が判明し、書き直したのでありますが。 
いいですか。上手=画面の右から消えた長男くんが、カット変わりとともに上手=画面の右から出てくるんですよ。両カットに5分10分でも時間差があれば、別に不思議でもなんでもない。でも、時間的にはつながってるんです。彼は画面の右から消えたのだから、カットが変わったら下手=画面左から登場するのが普通・当たり前でしょ、そうでないと前進したことにならないはずなのに、それが …! 次男くんも同様。上手から登場すると思いきや彼も下手からの登場となる!
この家の朝は、5分ではなく8分あるが、食事のシーンは5分強。不可解なことは、というか、通常の普通の映画ではあまり見ることのない、ありえないカット繋ぎはまだまだ次々と繰り出される。顔を洗ったと嘘をついて次男くんが戻って来たカットでは、画面手前に次男くんが座って、彼の向かい側に原さんが下手に長男くんがいることになるのだが、さっきは原さんの5分の1くらいに見えた次男くんの体の大きさが、半分以上の大きさに見える、とか。
冷静に考え、不明な箇所があれば何度も繰り返し見て、なおかつそれを絵にすれば、とりあえずこの家の構造は分かるかもしれない。でも、それを意識的に明確にしないのが小津の方法なのだろう。話し合う人と人は、実際には互いを見ながら話しているのであろうが、絵的には決して視線を合わせないし、例えば前述のあと、下手・手前から菅爺がみなが食事している茶の間に現れ、お膳の下手席に座る。奥の部屋には服を着終わった笠が上手側に。カメラ位置が逆になって、次のカットは菅爺のアップ、そして彼はカメラに向かって「今日は早いんだな」と笠に言葉を投げかけるのだ、笠は菅爺の斜め奥にいるはずなのに⁈
物語自体にはなにひとつ不可解なことはない。おもちゃの列車を走らせるレールを買ってくれるよう父にお願いしたのに、いつまでも買ってくれないといって、長男くんが次男とともに家でする話や、原さんが進行していた縁談話を蹴って、近所に住む、嫁を失くした子持ちの男と結婚することになる話等も勿論面白い。しかし、真に心惹かれ、ワクワクさせられるのは、上記の、他の映画では見られない不可解なカットとその繋ぎである。少し長くなるが、最後は、久しぶりに読んだ蓮見重彦の「監督 小津安二郎」(筑摩書房)の引用で締めくくることにしよう。
「現実に画面を見つつある瞬間に、小津安二郎の映画は、多くの人が言及するその単調な反復性にもかかわらず、瞳に、たえず変容せよと語りかけてくるからだ。不断に更新される現在としてそこに生なましく生きられている。(中略)その作品を見ているかぎり、人は決してできごとの中間に快くとどまるわけにはいかないだろう。」

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