「おみおくりの作法」について① プロローグ2022.08.04
一昨日の朝、「おみおくりの作法」をメモを取りながら再見し、それをベースに昨日の夕方からこのブログを書き始めたのだが、どうにもまとまらず。別に読みたいと思われる方々がいるわけではないのだし、「もういいか」と書くのを諦め、12時過ぎに眠りにつく。しかし今朝6時過ぎに起きた時、時間をかけても書き上げるべきだと自らに言い聞かせ、朝ご飯を食べた後、「おみおくり~」を再々見、今回もメモを取りながら。録画したものを見るのはこういうことが出来るからありがたい😉?
主人公ジョン・メイの仕事については前述した通りだが、<思わぬ出会い>があるのは、上映時間約90分の半ば過ぎだと思っていたが、ジョンより10歳ばかり若い上司に<クビ>を告げられるのは、ナ、ナント始まって約25分ほどだった😱
なぜそんなとんでもない勘違いをしたのか。多分、その<プロローグ>の描き方がリアルで密だったからだろう。よくある大方の詰まらない作品の<プロローグ>は、主人公を中心に、これから始まる物語の「必要な情報」を流す、いや<垂れ流す>ようなもので、早回ししてもさほどの問題もないようなものだが、この作品では、ジョン・メイ演じるエディ・マーサンの一挙手一投足、とりわけ、ただ鞄を手に家から仕事場まで歩くだけのシーンに心惹かれて…😮あれはいつだったか、柄本さんが「渥美(清)さんがひとりで歩く後姿はいいですよね」と言っていたっけが、いやあ、人前では冗談を振りまくフーテンの寅が夜、仕事を終えてひとりで宿泊先に帰る後姿が寂しげなのは至極納得はいくのだが、しかし、ジョン=エディはひとりとして友人はいないのに、その歩く姿はどこか颯爽としていて、とにかくさくさくとカッコ良く歩く、そこに不条理を感じ…、😒何故? 家族・友人・知人がひとりとしていないらしいことが分かれば分かるほど(😱?)それがまた切なくて …😩。
プロローグが全体の四分の一の長さをもつ作品を、わたしはこれまで一度も見たことがない。しかし、少なからずの方々は、そもそも冒頭の約25分をプロローグだと称するのはおかしくないのか、と思われるだろう、もしかしたら監督も同様に思われるかも。しかし、25分を過ぎて起こること、即ち、新たな死者の通報を受け取り、それが彼の住まいの通りを隔てた向かいのマンションの部屋の住人であることを知っての驚き、つまり、目と鼻の先の住人の存在さえ知らなかった自らの孤独=寂しさの確認、死者の部屋で見つけたアルバムに収められていた、ジョンとは縁遠い(?)いかにも楽し気な古い家族写真を見たショック、そして、前述した上司からのクビの宣告があって、ここから、言うなれば、物語の新たな、<劇的>とも言える展開が始まるのだから、冒頭の25分を<プロローグ>と称することに問題はないはずだと思う。
ところで、
わたしは何故この映画の感想を「時間をかけても書き上げるべきだ」と考えたのだろう? それは、今月になったら書き始めねばと思っていた新作「コスモス」(仮題)がどうにも書けないでいるからだ。なんとか書き始めねばと思えば思うほど、書かねばならない作品の姿がどんどん遠ざかり …😩何故? 多分、長く戯曲など書いていないからだろう。わたしの最新戯曲は、2020年にキノG-7で上演した「さいごのきゅうか」だが、しかし、これは殿井さんが書いたものに少々手を入れただけだから …。となると、2014年にA級MissingLinkの土橋くんに依頼されて書いた「Moon Guitar」が最新作となる(このブログの「ARCHIVES」調べ)。う~ん😒😒
「おみおくりの作法」は、そんな<書けないわたし>の決して小さくはない刺激になっている。具体的には、ここまで書いたこの映画の<プロローグ>のように、主人公の仕事ぶりを丁寧に細やかに描いて、物語を始めようと考えているのだ。